軍隊武装して会戦し豊富なる分捕品ありたる時の指揮官は、戦勝の神ユピテルに牛を斃し捧ぐべし。分捕りたる者には銅300与えらるるを要すべし。.....これが本当にヌマ王によるものか後世のねつ造かははっきりしないが、相当古い時代から銅が貨幣(形状はともかく)として使われていたと言える。
(西洋法制史料選I古代から引用)
第二表 一a
神聖賭金額は500アスか50アスであった。即ち、当事者は訴訟物の価額が千アスないしそれ以上の場合は500アスの、それ以下の場合は50アスの神聖賭金額をもって争った。なんとなれば、これは十二表法の規定するものだからである。しかしながら、もしある人間の自由についての訴訟ならば、たとえ人間がいかに貴いものであるとしても、つねに50アスの神聖賭金額をもって争われるべきものであると、十二表法に規定された。(ガーイウス)
第八表 三
もし手ないし杖にて(他人の)骨を折りたれば、自由人のばあいは300アスの罰金を、奴隷のばあいなれば150アスの罰金を支払うべし。
[注:西洋古代史料集にはアスではなくセステルティと書いてあった。]
第八表 四
もし彼が[その他の]人格権侵害をなしたれば、25アスが罰金たるべし。
西洋法制史料選I古代から引用
また、ローマの法律手続きには「銅と秤によって」という言い回しがよく出てくるが、これも古くから銅を重量で量って貨幣として使っていたことを示唆している。
ローマでコインらしいコインが発行されたのは先述のようにBC280年頃らしい。
Aes Grave (重い銅)と呼ばれ、文字通り大きくて重かった。(最初は標準で1アス324g. 10年ほどで265gまで軽くなる。)
この頃の銅貨は以下の通り。(いずれも後世のような打刻ではなく鋳造)
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BC220年頃のAes Grave (Quadrans, 41mm, 68.89g
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銅貨だけでは他国との交易に不便だったようで、銀貨も発行された。単位はギリシャ風で Drachm とか Didrachm (2 Drachm)。デザインもギリシャコインとよく似ているようだ。
第2次ポエニ戦争はローマに大変な財政危機をもたらしたようで、アス銅貨の重さは急激に軽くなり以前の1/6くらいになってしまう。また、銅貨の鋳造がなくなり全て打刻でつくられるようになる。
銅や銀だけでは足りなかったのだろう、ローマで初めて金貨が発行されたのもこの頃である。(金貨はあくまでも臨時的な発行であり、通常の貨幣として金貨が発行されるようになるのはもっと後の時代になってからである。)
同時期に銀貨についても大きな変化が生じた。DrachmやDidrachmに代わってDenarius(デナリウス)銀貨が発行されるようになったのである(BC211年)。1デナリウスは10アス相当とされ共和政期から帝政前期までローマの貨幣の中心であった。
短い期間であるがQuinarius銀貨(1/2デナリウス相当)、Sestertius銀貨(1/4デナリウス相当)も発行された。
デナリウス銀貨には10アスを表す X の文字が、 クィナリウス銀貨には5アスを表す V、そしてセステルティウス銀貨には2.5アスを表す IIS という文字が入っている。
BC141年にデナリウスとアスの交換比率が変更になった。それまで1デナリウス=10アスだったのが1デナリウス=16アスになった。この新しい交換比率はその後帝政になってもデナリウス銀貨の発行が続く限り変わらなかった。
アス銅貨の重量の標準はまたもや下がり、BC2世紀後半には当初の1/12くらい、BC91年には当初の1/24くらいになった。この標準はアウグストゥスにより帝政ローマのアス銅貨の標準として引き継がれた。 この間デナリウス銀貨は特に軽くなっていない。管理人の私見であるが、価値基準がデナリウス銀貨になりアス銅貨はそれとの相対的な関係で価値が決まるようになっていたのではないだろうか。であるならば、デナリウスの1/16と定めてさえあればアス銅貨の重量は軽くしてもかまわないわけである。
長い間デナリウス銀貨のデザインは表がローマ女神、裏が騎馬の双子神または2頭立てチャリオットと決まっていた。造幣担当官の名前も入っていなかった。
しかし、BC2世紀中頃から造幣担当官の氏族名が入るようになり、やがてデザインも多様なものになってくる。(自分の一族の歴史を誇るようなデザインも多い。)
カエサルの頃になると表に自分の顔を描かせたりしている。
王になろうとしているとしてカエサルを暗殺したブルートゥスも自分の顔入りのコインを発行しているのは面白い。