コインの歴史(帝政ローマ)

アウグストゥスの通貨改革

初代皇帝アウグストゥスによってローマの通貨制度は以下のように整備された。    
金貨 アウレウス金貨 25銀貨デナリウス相当
クィナリウス金貨 12.5 銀貨デナリウス相当
銀貨 デナリウス 16アス相当
クィナリウス 8アス相当
黄銅貨 セステルティウス 4アス相当
ドゥポンディウス 2アス相当
セミス 1/2アス相当
銅貨 アス
クァドランス 1/4アス相当
セミス、クァドランスといった少額貨幣はインフレの進行のためか、次第に作られなくなっていくが、他は3世紀頃までは発行が続く。交換比率もアウグストゥス時代に確立したものが受け継がれていく。
アウグストゥスによって帝政ローマの通貨制度が確立したと言って良いだろう。

アウグストゥスは金貨、銀貨の発行権を独占した。しかし、銅貨については元老院に発行権を残し、SC(元老院の議決により)の文字を刻印させた。元老院尊重のポーズを崩さず、しかも重要な権限は自ら持つというアウグストゥスらしい政策だ。

東方の属州に対しては、無理にローマの貨幣に統一することを強制せず、ローマの支配下に入る前からの単位(Cistophorus, Drachm, etc.)の貨幣を発行することを許した。これにも、柔軟なローマ人らしい統治方針を感じる。

銀貨の品位低下

共和政時代のデナリウス銀貨の純度は概ね98%位であったが、共和政末期の内乱の時代には92%位に低下していた。

アウグストゥスは平和を回復すると、デナリウス銀貨の純度を98%位に復活させた。 その後、ネロの時代から銀貨の純度は低下の歴史をたどることになる。考えられる理由としては、スペインの銀の産出量の低下、軍事費の増大による支出の拡大、経済発展に伴う通貨流通量の必要性などがある。贅沢品の輸入などによる通貨流出も理由になっているかもしれないが、インドなどに流出したのは金貨が多かったようだ。

デナリウス銀貨の品位の低下 (Duncan-Jones による)
皇帝在位重量純度
アウグストゥス BC27 - AD14 3.8 g 98 %
ティベリウス AD14 - AD37 3.75 g 98 %
カリグラ AD37 - AD41

クラウディウス AD41 - AD54 3.75 g 98 %
ネロ (前期) AD54 - AD64 3.63 g 97.5%
ネロ (後期) AD64 - AD68 3.36 g 93.5%
ウェスパシアヌス AD69 - AD79 3.36 g 91.25%
ティトス AD79 - AD81 3.47 g 92.5%
ドミティアヌス (前期) AD81 - AD94

ドミティアヌス (後期) AD85 - AD96 3.51 g 93.5%
ネルウァ AD96 - AD98 3.47 g 93.25%
トラヤヌス AD98 - AD117 3.36 g 91.5%
ハドリアヌス AD117 - AD138 3.36 g 90%
アントニヌス・ピウス AD138 - AD161 3.36 g 88%
マルクス・アウレリウス AD161 - AD180 3.36 g 78.5%
コンモドゥス (前期) AD180 - AD186 3.16 g 74.5%
コンモドゥス (後期) AD187 - AD192 2.87 g 73.4%
セプティミウス・セウェルス (前期) AD193 - AD198 3.16 g 64%
セプティミウス・セウェルス (後期) AD198 - AD211 3.36 g 55.5%
カラカラ AD211 - AD217 3.23 g 51%
マクリヌス AD217 - AD218

エラガバルス AD218 - AD222 3.05 g 45.5%
アレクサンデル・セウェルス AD222 - AD235 3.10 g 45%

表中の重量、銀純度はサンプルから計算されたもので、全発行通貨で平均したものではない。しかし、銀貨が重量、純度ともに劣化していく過程はよくわかる。また、ローマ帝国の最盛期とされる五賢帝の時代にもデナリウス銀貨の品位低下が進行していることがわかり興味深い。

カラカラの時代にはデナリウス銀貨の純度が約50%にまで急低下しただけでなく、アントニニアヌス銀貨の発行が215年に始まった。アントニニアヌス銀貨は2デナリウス相当とされるが、純度はデナリウス銀貨と変わらず、重さは1.5倍程度しかなかった。

3世紀はローマ帝国にとって危機の時代であった。外敵の脅威が増すとともに、各地の軍団が皇帝を次々と擁立し、しばしば内乱に陥った。
アントニニアヌス銀貨の純度も時代とともに低下し、ウァレリアヌス(在位253年〜260年)の時代には20%を割り、その子ガリエヌス(在位260年〜268年)の時代には10%を割り込む。アウレリアヌス帝(在位270年〜275年) が即位することには3%を切っていた。
アウレリアヌス帝は貨幣への信用を高めるため、純度を5%にまで高める通貨改革を行った。ガリアやブリタニアなどではこの新しいコイン(アウレリアニアヌス)は不足し、粗雑な模倣貨、ガリア帝国時代のアントニニアヌス、あるいは贋金が使われた。

ディオクレティアヌスの通貨改革

ディオクレティアヌス帝(在位293年〜305年は四分割統治で名高い皇帝だが、通貨に関しても重要な改革を行った。
アウレウス金貨に含まれる金の量の基準をを60分の1ローマンポンドとした。 アウレリアニアヌスの替わりとして銀メッキのヌムス貨を発行した。
純銀に近いアルゲンテウス銀貨を発行したが、これは共和政や元首政時代のデナリウス銀貨と異なり補助的な役割しか持たなかった。 主要な貨幣はアウレウス金貨と銀メッキされたヌムス銅貨であった。彼の新しい貨幣はそれまでの貨幣を置き換えただけでなく、それまで貨幣の供給が十分でなかった地域にも莫大な量が供給された。ディオクレティアヌスは通貨改革を行い、また、最高価格令を布告して物価の安定に努めたが成功したとは言い難く、物価は上昇した。

帝政末期のコイン

ディオクレティアヌス引退後の内戦は対立した皇帝たちに多くの出費を強いることになった。その中でコンスタンティヌス1世はヌムス貨の品質低下に先鞭をつけることになる。ライバルたちも後に続いた。
金、銀の価格の上昇でコンスタンティヌスは一時アウレウス金貨とアルゲンテウス銀貨の発行を中止する。309年に金貨の発行を再開するとき、彼はソリドゥスの名で知られる金を72分の1ローマンポンド含む新しい金貨を導入した。

コンスタンティヌス帝の息子の時代に比較的重い銅貨が発行されたが長続きせず、その後は小さくて軽い銅貨が発行される。ローマ帝国が395年に東西に分裂する頃には、直径1cm重さ1g程度の極小さい銅貨が多く使われていた。高額の支払いに使える金貨、銀貨は不足し、替わりに金や銀の装飾品や皿、メダルなどを重さで計って使うようになっていた。 [工事中] *
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